読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

とりあえずのブログ

とりあえずのブログ

映画の感想『息の跡』

映画の感想『息の跡』 (於:ポレポレ東中野。いわゆるネタバレも含みます)

 ~風の音、震災との距離、佐藤さんの語り、空間と視点~ 

 

   森はるか監督のドキュメンタリー映画『息の跡』は、陸前高田の「たね屋」(種苗店)を営む佐藤さんを見つめる作品だ。佐藤さんは震災津波罹災者の一人だが、罹災者の語り部としてではなく、震災後の余波の中で生きる人として映画の中では映る。佐藤さんの罹災者としての語りは、出身校である県立高田高校を巡る説明にふわりとささやかれるが、それ以外では明確な形では表明されない。

   佐藤さんは日本語ではなく、自分の体験と考えを英語と中国語で文章にし、自費出版する。映画の中で佐藤さんはその出版のダイアローグとしては語るが、率直な罹災者の体験談をカメラの前ではあまり言葉にしない。それを意外と感じる人も多いのではないだろうか。私も「罹災者の語り」の映画だと、観るまでは思っていた。

   佐藤さんは日本語で書くことへの躊躇があり、自分の体験に対する距離をうまく掴めないでいる。ゆえにあえて独学の英語や中国語で罹災経験を書き込むが、その文章の朗読はまるでチャント(詠唱)である。その声は、オーソン・ウェルズやファンタジー、歴史映画などのナレーションのようだ。しかし、それは奇妙でも場違いでもない。何故か落ち着く。

 

   映画を観ていて私の心を鷲掴みにしたのは「風の音」だ。陸前高田は平地にかなり恵まれていた。しかし、太平洋岸のこの地域は東北のイメージからほど遠く雪があまり降らない場所であるが、それでも風の強い地域であった。高台は風がうねる。だから、多くの人は平地に住まう。

   日本百景にも選ばれた高田松原は防風林であった。平野部には多くの家が建ち並び、防波堤とともに松原は厳しい風を和らげた。厳冬の刺さるような風を避けて、多くの人々は平地を選んだ。しかし、もう松原も、防波堤も、家並みもない。だからこそ、風の音が大地を支配する。高台だけでなく平野にも強風が吹き込み、大地が鳴る。

   風の強さに辟易しながらも、平野におりれば、街中に入れば、風が和らぐ。震災後にTwitterなどでは何故過去の津波被災の経験(1896年明治三陸地震津波、1933年昭和三陸地震津波、1960年チリ地震津波がありながら、沿岸部の人々は平地に暮らすのかと疑問を投げかける人もいた。その答えは様々だが、風を避けることもまた大きな理由であった。実際、震災後に家を失い、居住地を平野部から高台に移転させた人々は、こんなにも風が強く唸るんだねとよく語っている(これには私の両親も含む)陸前高田は東北以外の人には意外に思われるかも知れないが、あまり雪が降らないし、積もらない。太平洋沿岸部はほとんど積雪がなく、平野部はとても暮らしやすいのだ(一方、車で20分も内陸に行けば大雪の積もる豪雪地帯となる。上映後のアフタートークで監督と一緒に登壇したフォトジャーナリストで神奈川県生まれの安田菜津紀陸前高田を「東北の湘南」のような言い方をしていた。ちょっと恥ずかしいが、言い得て妙だった)

 

   この風の音と復興のために走り回る車の音の世界で佐藤さんは暮らす。被災地の……、「現地」の人だ。このブログを書いている「私」は陸前高田に生まれ、18年間生活したが、今は恐らく「外」の人だ。震災後10日間以上親と連絡が取れず、ヤキモキしていた私は、確かに現地生まれの気仙人(=岩手県南部沿岸地域の旧気仙群に住んでいる人たちを表わす言葉なのかもしれない。しかし、高校の卒業と同時に故郷を離れ、遠くにいる人であった。だからこそ、震災後にどう故郷と接することができるのか、模索した。故郷として被災地に思いを馳せる一方、自分が離れて「しまった」場所との思いが強くなった。震災後に共著を書き、現地で2回インタビューを行ったのも、そうした思いを打ち消そうとする模索の一環であった。

 

   私は罹災者しか描けなかった。現地の人の震災時の状況をすくい上げることはできても、その「常態への復帰」に寄り添うことができなかった(そしてその常態はいまだ彼方にある)。陸前高田を離れて20年も経った自分の限界である。私は裕福ではなく、故郷へと通う交通費すら簡単には捻出できなかった。震災後も、私はすぐには行けず、兄を送り込むだけであった。そして、日常への復帰は少しずつ進展し、しかし、終りが見えない状況が続く。生活はまだ「祝祭空間」(=常態ではない特別な空間)のままだ。日常であるが、日常ではない。

  『息の跡』での佐藤さんは罹災者でありながら、罹災そのものが描かれるのではなく、その生活が織り込まれる。被災後の現実と、生きる現実が交差する。その現地の人に、小森はるかは接する。アルバイト生活をしながら陸前高田に住みこんだ(アルバイト先の食事処の名は、出身者ならだれもが知っている場所だ)が、私と同じ「外」の人だ。フォトグラファー安田菜津紀も親族としての縁をもちながらも、出身者ではなく外の人の意識があるのだろう。

   しかしながら、二人は私とは違う。震災後に、津波以降の余波の中で、私の知らない陸前高田をつぶさに見て取ってきた、外の人だ。だからこそ、表現に力がこもる。外からの人だからこそ見つめることができる視点で、陸前高田の人が知らない、気づけないでいる「現地」をすくい上げる。現地生まれであるが、離れてしまった私にはできない表現がそこにある。

 

   映画の後半で明らかになるが、そして映画のチラシで告知されていたことだが、その舞台は「今は昔」である。すなわち、映画の舞台となったプレハブ造りの「たね屋」はもう存在しない。そうした場が、もしかしたら幸せの場所になるのかも知れない、復興の足掛かりなのかもしれないと期待して視聴者は映画を見る。しかし、その場所は解体される。

   その理由は視聴者にとっては仕方のないものかもしれないし、ある人はしょうがないないねとも思うだろう。しかし、そのシーンに同時に喪失感を感じる。陸前高田出身者であろうと、そうでなかろうと、映画の観客である「私たち」がつぶさに見てきたその場所が、もう存在しないのだ。そして、最後のシーンをまなざしながら、見ている人は震災後に津波で同じように失われたものがあまりにも多かったことに思いを馳せる。多くの建物が、思い出の地が、人の命が、以前、この地で、この場所で失われていったのだ、と。それに寂寥感を覚える人もいるだろうし、そのこと自体が起って欲しくなかったと感じる人もいよう。

   その後の佐藤さんが語られないことで、私は戸惑った。希望的観測でも、絶望でもない中途半端な思いが見終わった跡に残る。思わずため息を吐く。佐藤さんのその後の暮らしが紹介されていたら、私は安堵しただろうか。恐らくはそうではないだろう。そして、映画を見終わった跡、帰宅途中の私の手には、上映前に劇場で購入した佐藤さんの本『The Seed of the Hope in the Heart』(私家版:英語)と、佐藤さんの種「すてきだ菜」(こまつなの種)が残った。

 

   佐藤さんは震災体験を、日本語では記述しない。英語と中国語で書く。映画の中でも少し語られるが、そこには恥ずかしさと、怖さと、不器用さが重なり合う。震災経験への距離の取り方は人それぞれで、佐藤さんも、そして多くの罹災者が悩んだことだろう。それは佐藤さんのひとつの答えだった。それは正しいとか、正しくないとかの話ではなく。他の選択肢がいくつもあるなかでの佐藤さんの選択だった。

   繰り返しになるが、映画の中では佐藤さんの直接の震災への語りはあまり表明されない。色々な思いが婉曲的、間接的に表現される。彼の震災の語りは、それだけに本に集中する。先に佐藤さんの本を朗読する声がチャントのようだといったのは、ハワイの先住ハワイ人の神話時代の神に捧げる詠唱を思い出したからだ(念頭にあったのは、現代ハワイで古代フラを教える先生「クムフラ」を取材するドキュメンタリー映画『クムフラ』(Robert Mugge監督、1989年)の冒頭のチャントだ)。佐藤さんの朗読は、まさに儀式……のようにみえた。

 

   佐藤さんが直接的に震災被害を語るのは、卒業した高田高校について話す部分だ。パソコンの画面でカメラに向けて写真などを見せる。その高校が津波を受け、校舎の3階まで被害が及ぶ。ちらりと地理的な写真が写るが、その高校が具体的にどのような場所にあったかは、陸前高田に住んだことのある人でなければわかるまい。3階まで津波が及んだ高田高校の校舎は、松原からおよそ1キロ以上も内陸にあると知ったら驚くだろうか。そして、このエントリで何度も書いた高田松原が、ほぼ津波で消失しており、砂浜は海中へと削り取られ海になっている……海岸線は100メートルほど削られてもうないのだと知ったら、映画を見た人はどう思うだろうか。

   佐藤さんの言葉から、気仙町今泉地区や竹駒町といった地名が登場するが、映画の中ではほとんど位置関係は言及されない(映画の中では「部落」との表現がなされる。現地では40代前半の私が10代の頃には社会的要請により地域での表現が改められ、呼称は「部落」ではなく地区との表現へと変わっていったが、年配の方は普段の生活では「部落」の表現を一般的に使用している。なお、管見の限り、現地でのこの表現には現代の地区の意味合いしかなく、差別的な表現はないといって差し支えない)。ケンカ七夕や獅子舞など、町内会や子ども会での行事なども紹介されるが、それらがどこで行われているかもわからない。佐藤さんの本の表紙裏に地図があり、一部の地名はのっているが気仙川が中心であり、高田高校も、私の育った小友町も載っていない。

   これを不案内と思う向きもあるかもしれない。しかし、これでいいのだと私は思っている。俯瞰的な鳥瞰図をみて、この場所、この場所と理解することもできるだろうが、それは他者としての把握にすぎなくなってしまう。地名や位置関係が示されないことによって、むしろ観客はより現地の人々や光景に引き寄せられ、視点は彼ら/彼女ら、佐藤さん/小森監督と同じ目線になる。対象としての被災地の人々と光景が、俯瞰的に「外」からの眺めになるのではなく、観客である「私たち」もそこにいるかのように、視点が重ねられてそっとおかれる。そのために地理空間は把握されるものではなく、内的に共有されるものとして示されているのではないか。

 

   ドキュメンタリ映画の語りの手法は様々で、一言ドキュメンタリと言っても手法自体がジャンルのごとくだ。たとえばアメリカのマイケル・ムーア監督は『ボウリング・フォー・コロンバイン』などの作品で語りの主軸として監督自身を登場させ、対象となる人々との会話、ダイアローグで構成する。ムーア監督が手法を学んだとされる、『アトミック・カフェ』(ケヴィン・ラファティ、ジェーン・ローダー、ピアース・ラファティ監督、1982年、アメリカ)は監督自身はいずれも登場せず、公的映像やメディア映像に、同時代の楽曲や音声を重ねつつ編集し、その編集自体によって批判的・風刺的視点を描く(『アトミック・カフェ』はムーアのみならず、当時の映像作家に多大な影響を与えた。日本でも『トップをねらえ!』やエヴァンゲリヲン・シリーズ、『シン・ゴジラ』で知られる庵野秀明にも影響している)

   『息の跡』はこれらのドキュメンタリともまた違う表現を選ぶ。鑑賞して思い出したのは、土井敏邦『異国に生きる 日本の中のビルマ人』(2012年、日本)と小嶋裕一の『19862011』(2013年、日本)と『奥の細道 2012』(2012年、日本)だ。

   前者は軍事政権下のミャンマーから難民として日本に渡り、現在はNHKラジオのビルマ語(ミャンマー語)アナウンサーもしているチョウチョウソーさんを取材した映画だ文化庁 文化記録映画優秀賞を受賞したので知っている人も多いかも知れない)。チョウチョウソーさんは震災後に日本のビルマ人コミュニティと連携して気仙町で炊き出しを行ったことがあり、この映画の中でもそのシーンが登場する陸前高田ではビルマ料理を食べる機会など震災前でも滅多になかったと思うので、それがどう受け止められたか私も気になっている)。共通の知りあいがおり、その炊き出しの話を聞いた縁で、以前に私の共著者となってくださった方だが、チョウチョウソーさんが日本に来てから難民認定されるまでは非常に長い時間が掛かった。認定されても奥さんを日本に呼び寄せるのには困難が伴い、また祖国のために日本から情報を発信することを長年行ってきた。そのチョウチョウソーさんを見つめるドキュメンタリは日本人から見たら「他者」であり、その彼が日本の地で難民として暮らすことの困難さを物語る。祖国に戻れない生活を、土井監督と撮影チームは対象としての距離を取りながら、浮かび上がらせる。

   後者『19862011』は、タイトルからも想像できるかも知れないが、2011年の福島第一原発事故をきっかけとして、近年忘れられがちであった1986年のチェルノブイリ原発事故を見つめ直す作品だ。こちらは、チェルノブイリの事故現場を不可視化せずに日本からのツアーで巡り(いわゆるダーク・ツーリズム)、現場をツアー客が目の当たりにする姿を撮影する。案内役の現地の専門家やジャーナリストも登場するが、ツアー客(ただし、ジャーナリストや文筆家などの著名人ではある)の素朴な反応が、かえって忘れてはいけない過去を浮き彫りになる。日本から「外」を眺めることで、それは未来的にも「内」を眺める営為になることを示す佳作だ。また、『奥の細道 2011』はジャーナリスト(本人はメディア・アクティビストの名乗り)が東日本大震災の震災地を取材する風景を写すが、ジャーナリストの仕事上表出する部分ではない「日常」(取材の途中経過)を重ねることで、東京から被災地の距離を点で結ばずに線でつなぐ。こうした視点により、被災地と「外」が地続きであることを明示化する。

   いずれの作品も監督の姿はほぼ作中に現われず、直接的なダイアローグはない。しかし、対象となる人を軸に、劇的なイベントばかりではなく、日常的な様子を重ねていくことと、その編集で、監督の「語り」を示す。『息の跡』で、しばしば佐藤さんが小森監督に話しかけるシーンがある。佐藤さんの「わがるが?」(=わかるか?)の問いに、小森監督は、ハイと小さな声で答える(時には「わかりません」と答える)が、監督の直接的な言葉のメッセージもまた作中にはない。それに不満を感じる向きもあるが、これもまた、上記の諸作のように、ドキュメンタリの対象との「間合い」の意識的な取り方なのだろう。

 

  『息の跡』は電車やバスの車中で、冬場に窓に息を吹きかけたときに残る吐息のくもりのことだ。それは誰の息の跡なのだろう。アフタートークで少し触れてもいたが、それをおいても、佐藤さんや罹災者の息かもしれないし、監督の息かもしれないし、観客の息かも知れない。佐藤さんの息は、きっとあのプレハブ小屋の「たね屋」であるし、小森監督の息はこの作品なのだろうし、観客の息は映画を見終わった後のため息でもあるし、Twitterやブログでの思いの記録なのかもしれない。そして被災地の罹災者にはその人の数だけの息の跡があり、それを眺める人々の数だけの息の跡がある。それは今は昔なのだし、今でもある。

   (2017年3月22日)

 

 ※この記事は2017年3月6~9日に書いたものです。最初はTwitterに載せようと思って書き始めた雑文ですが、どうしてもコンパクトにまとめることができず、数年ぶりにブログをはじめて見ることにしました(3月22日の公開に併せて誤字脱字や表現を改めました)。しかし、長い文章で。どうしても故郷のことだと、思いが強くなりすぎてしまいますね。載せようと思っていたブログがうまく使えず、結局新たに使いやすそうなブログのサービスを探して開始となりました。

※なお、文中の「共著」は大学生向けのテキストとして編纂された準学術書です(学術書であるが、意図的に読みやすく、罹災者に届く本にしたいと編著者と企画を練ったものと)。初版を完売したが、その印税では2回のインタビューの旅費や滞在費を賄うことができませんでした。出版部数の少ない学術書の現実ですが、それを名目にして、当時の収入に乏しい私が、両親に会えたことは正直嬉しかったです。その出版企画がなければ、貧しかった私はさらにしばらくの間は両親に会いに行くことができなかったでしょう。

 

追記:

3月22日に公開するにあたって、読み直して気づいた点や思い出したことをいくつか追加します。

 

「けんか七夕」

   陸前高田のお祭りで気仙町が中心ですが、これは車輪の付いた山車同士をお互いにぶつけ合うという、勇壮な……、ある意味とんでもないお祭りです。写真の付いた大きな山車は、仙台七夕にもありますし、有名なだんじりもそうですね。震災後には、山車が津波で逸失したり、そもそも町内会が解散したところもあり、復興が困難であったとのこと。以前の全ての町内会の山車が揃うことはもうないが、残った町内会で復興開催された。地元の人たちが作ったドキュメンタリや、テレビ報道でもみたが、震災後に山車を飾る意匠を作る市外の職人さんたちもまた居なくなったり高齢でやめたりしているとのことだった。こうした側面も震災の復興の難しさを物語る。

   けんか七夕の太鼓や笛の音も震災後一時途絶えたが、それぞれ再び子どもたちに教えたりしているとのこと。なお、笛の音は戦時中にも途絶え、その後しばらく伝承はされていなかったが、気仙町の町内会の青年団活動で復活を試みた。楽譜などがないので、記憶やオーラル・ヒストリーを頼って音色やリズムを復興した音色とのことである。太鼓に関しては震災前には全国太鼓フェスティバルのような大きなイベントも行っていた。なお、獅子舞の音色は他の町内会でも音色はほぼ同じであるが、伝播形態などについては私には不明である。

    気仙町のけんか七夕太鼓の音については、YouTubeのこの動画を参照されたい。前述の青年団活動をしていた人たちの姿も見える。

 "Kenka Taiko in Narita Taiko Festival" 気仙町けんか七夕太鼓 成田太鼓祭 2012.04.15 - YouTube

 

「ホイド」

   東北地方の方言で、乞食などを表わす。現地の人が発する言葉だが、小森監督は意味がわからず。ここは、取材対象者と監督の距離感を表わすシーンともなっている。東北以外の地域ではこの単語に違う意味があるそうで、欲張りとか大飯ぐらいとか? ちなみに、私(40代前半)は人生でこの単語を聞いたのは1回だけで、秋口に中学校教員が授業で話してくれたときのみであった(使ってはいけない言葉の趣旨で)。当時、祖父母に聞いたが、そういう言葉もあったなぁくらいの反応でそれ以来15年間も忘れていた言葉であった。映画の中で聞いて、えれぇなつかしぃなあ、と思ったものである。

 

 「わがるが?(わかるか?)」

   『息の跡』を見ているときにはまったくなんとも思っていなかったのだが、Twitterでの感想では佐藤さんのこの問いかけに反応しているものが多くあった。恐らく小森監督の考え方を作中の言説から拾い上げる上では数少ないダイアローグなので、特に気になった人が多かったのではないかと思う。その後に来る小森監督の声色が面白いこともあり、これは確かに目立つのかも知れない。

   ただ、Twitterで言及されるのをみるまで私がまったく気にならなかったのは、これを陸前高田の人が普通につかう会話の常套句じゃないかと思っていたからで、佐藤さんの個人の「キャラ」というよりは、気仙人みんなそうなんじゃないかと……。

   子どもの頃に「わかる?」との問いかけはさんざん聞いた記憶があり、ここ数日で色々な人に聞いて回ったら、やはり「わかる?」のような問いかけは普通の日常会話でよく聞かれたり、見かけたりしたとのこと。宮古市など沿岸北部でもそうだったとの話もあり、気仙人だけじゃなく、岩手沿岸部全体にある習慣なのかもしれない。陸前高田のみなさん、東北のみなさん、どうだべが?

 

はじめに。

   10年以上前に書いていたブログが使いづらかったのと、メールとパスワードの管理の問題で面倒だったので新しく初めて見ることにしました。

   どうも、PowerfulHKこと金澤です。取り敢えずは気楽な備忘録として初めて見たいと思います。演劇や映画、マンガ、読書の感想などをつらつらと書き殴ってみます。

   どうぞよろしく!

   (2017年3月22日)